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どうする家康諸説ある築山殿信康事件で斬新な解釈を打ち出した背景 まさかの武田勝頼の裏切りもむしろ共感してしまうほどの方針転換だった(1/4) - JBpress

まさかの武田勝頼の裏切りも、むしろ共感してしまうほどの方針転換だった

家康が息子・信康を弔うために建立した清瀧寺(浜松市)

 NHK大河ドラマ『どうする家康』で、新しい歴史解釈を取り入れながらの演出が話題になっている。第24回「築山へ集え!」では、瀬名と信康が各方面に密書を送り、多くの者が築山を訪ねていることを家康は知る。訪問者のなかには武田方の者もいて、いよいよ見過ごせないと家康が瀬名のもとに向かうが・・・。今回の見所について『なにかと人間くさい徳川将軍』の著者で、偉人研究家の真山知幸氏が解説する。(JBpress編集部)

カオス状態の岡崎城に置き去りにされた築山殿

 大河ドラマ『どうする家康』の放送が始まるやいなや、注目されたのが、徳川家康と正室の築山殿(瀬名)との運命である。

 家康は天正7(1579)年9月15日に、嫡男である信康を自害させた。それに先立って、8月29日には家康の正妻で信康の生母である築山殿も、家康は自害させている。

 そんな凄惨な事件を思えば、家康と築山殿の夫婦仲はよくなかった、もしくは、どこかですれ違ったと考えるのが自然だが、『どうする家康』での松本潤演じる家康と、有村架純演じる築山殿は仲むつまじい夫婦として描かれてきた。

 最初のターニングポイントは、やはり家康が桶狭間の戦い後、今川方から離れて岡崎城で独立し、織田方についたことだろう。

 というのも、築山殿は今川氏の重臣である関口氏純の娘にあたる。夫の家康が今川方を見限るとは、婚姻時には全く想定していなかったに違いない。結果的には、築山殿と子ども達は岡崎城に迎え入れられるが、そのあたりから家康への不信感があってもおかしくはない。

 しかも、岡崎城には、家康の生母である於大の方が、夫の久松俊勝とともにすでに入っていた。さらに、息子・信康の妻として迎えることになったのは、織田信長の娘、徳姫である。

 そんなカオス状態のなか、家康は築山殿を岡崎城に置き去りにして、新たに居城とした浜松城へと移ってしまう。岡崎で何も対立が起きないほうが難しいような状態といってよいだろう。

 案の定、徳姫は夫の信康とも、姑の築山殿とも折り合いが悪くなり、父の信長に「十二カ条の弾劾状」を書いて送ることになる。そのことが信康と築山殿の処断につながった、とされてきた。

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